石井先生の「論文道場」より。

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これについては深く考えてきました。漢字ができても文章を読めない子、作文が書けない子が非常に増えているような気がするんです。また同じように、計算は出来ても「数的センス」の弱い子も他塾から来る子には多く、これじゃやばいなと小学部を設置したわけですが、それは正解だったと最近感じます。

他塾を侮辱するつもりはありませんが、やはり、教える先生に「数的センス」や「論理センス」がないと、うわべの学習だけが先行し、そこに不要な自信やプライドが育つことが多く、それを矯正するのに時間がかかります。

漢検があるから「漢字が大事」。では本質的な国語力はあるのかといえばそうではない。本も読まず、宿題の「読書」だけイヤイヤこなしているような子、家にろくすっぽ本の置いていない家庭の子、親との会話に論理や深みがない子、こういう子で国語力が育つ可能性は低いのが当然なことなのです。

また、「算数・数学は計算が大事だから、計算だけやっておけ」みたいなスタンスで、数学が得意な子(高校進学後)が育つわけがありません。

生徒に私は

「考えないでできる奴はバカだよ。自惚れているから。一生考えて考えて問題を解くのに、単純なことにしなければ(単純化)問題が解けないような子が賢いわけがないだろう。生徒が考えないでも解けるようにするのは講師のテクニックでもあるけど、それは後々の責任を取らない人間の仕事であって私の仕事ではない。君らは大概高校3年まで塾にいるのだから、今は悩み考え苦しみぬくことに慣れなさい。それで解けるようになることで、これからの難問を一人でも解ける力が付いてくる。」

と日々言っておりますが、解けないことを恐れず、数学にしても国語にしても、そこにある「問題(対象)」と真摯に向き合う姿勢が大切なんです。漢字が得意というのはゴールじゃありません。計算が得意というのも同じ。文章を読み解くこと、抽象化して式を作る(立式)ことが第一段階のゴールでしょう。

単純化して「出来不出来」を競い、そこで親子で一喜一憂してる姿は残念なものです。本質を捉えずに、表面ばかりを追うスタンスは、そのうち機能不全を起こします。

総じて、子どもに必要なのは成功体験ではないと思っています。勝てる土俵を与えて「成功」したところで、子どもはバカじゃありませんから、それで難しいレベルには挑戦しません。失敗しても間違えても頑張りを評価し、小賢しさや単純化を評価しない、「じあたま」の育成場所が必要なのではないか、と思います。

「非識字者」が増えているのは、学校の宿題を見れば分かります。小学校から高校まで、書き書きの宿題に溢れ、物事の関係性や「視点」や「文脈」についての学習は皆無ですから。また、眠くなる国語の授業が多いというのも、本当は大問題なのです(当塾は国語の授業がメインです)。

暗記だけで難関大学が受かるわけがありません。単純化した頭では受からないように大学側が作っております。

小学校や中学校、家庭や塾で単純化した頭を作っていれば、三流大学なのは言うまでもありません。そのように「教育」しているわけですからね。

 

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